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 かつて日本がカーキ色に染めあげられた時代に、肘が抜けた赤いセーターを着続けた絵
描きがいました。長沢節です。
 1917年生まれ。ファッション・イラストレーターとしても有名になった水彩画家。強度
の近眼で徴兵検査では丙種。少年時代からの痩せた体は戦争には向いていず、文学や絵に
心を奪われていました。軍事教練がいやで、旧制会津中学では卒業時に教練不合格。それ
が原因で官立大学へは進めずに、西村伊作がつくった文化学院に入学。在学時に、すでに
水彩画を認められていました。仕事としては、中原淳一の推挙で女性雑誌の挿絵を描きま
した。

 彼は、戦意を高揚させるための戦争画は、一枚も描きませんでした。
 戦争が激しくなり、挿絵の画風に当局から「痩せて病的。ヤマトナデシコがもんぺもは
かず、胸に日の丸をつけていないのがけしからん。不健全な美人画家だ」とクレームをつ
けられ、ついには執筆停止処分になりました。
 にもかかわらず、披は軍人は描きたくなかったのです。国民服もゲートルも、戦闘帽も
彼は持っていませんでした。赤いセーター、ゲートルの替わりに荒縄。そして戦闘帽の替
わりに古いハンチング、というのが彼のスタイルでした。

 弱いから、好き。弱いから、美しい。それが彼の美学であり、生きた時間を貴いた一途
な生き方でもありました。強くたくましいマッチヨな男性美にまっこうから対立して「孤
独で弱い男性の美しさ・・・…それは全く兵隊の役には立ちそうもない男性美」(『弱いから、
好き。』長沢節・文化出版局)を主張しました。
 1954年に開いた「セツ・モード・セミナー」のデッサンのモデルに選ばれるのは痩せた
体の持ち主ばかり。その生徒らをモデルにして1964年に「モノセックスショー」を開き、
男女の区別を服からなくし、好きな服を自分のサイズで着る、という実験的な試みでした。
男がスカートをはいてみせたのです。
1970年には「ホモ・ジュッピーズ」、スカートをはいた男だけのショーをやります。若
き日のデザイナー、渡辺雪三郎も参加。171センチ・38キロの極細の体に超ミニのギャザー
スカートをはき、上はトップレスで、銀座の街を練り歩きもしました。

 もっとも、1946年に、すでに長沢節その人がスカートをはいて銀座を歩いていたのを「
朝日」の記者が発見。写真が翌日の紙面を飾り「男もスカートをはく平和な夏が到来した
−そんな記事の街頭スナップだった」(『長沢節物語』西村勝・マガジンハウス)。人
からもらったジャワ更紗を民俗衣装のロンジー〈筒形のスカート)にして彼ははき、まず
最寄りの推名町の駅、そして池袋、度胸も座って銀座へも、という次第だったそうです。

 払はまず、長沢節の裸体デッサンを見て魅せられ、つぎに水彩画を見て驚き、画家とし
て出会ったのが最初でした。さらに1980年代に「MR.ハイファッション」に連載された『セ
ツのダンディズム講座』を読み進めて魅了され、上に挙げた書物など、彼の書物、彼に関
する書物をのこらず読んできました。
 ここに僕がいる、と激しく共感を覚えることばがいくつもあります。「世界中、みんな
みなしご」など、とくにそう。根っからの反戦主義者は、根っからの自由人であり、根っ
からの芸術家なのでした。1999年の訃報の紙面に、私は不覚にも涙をながしました.
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